Feb 29, 2008

最近読んだ本:「フェルマーの最終定理」

「xn+yn=zn」をめぐる360年をかけた人類の壮大なドラマ

最初に書きます。私は数学オンチです。正直算数レベルどまりだと思います。その算数だって、割り算の概念が理解出来ず、掛け算を使って力業で答えを出すという自前の方法で小学校5年頃までやり過ごしてたくらいです。

そんな数オンチの私が読み出したとたん止めることが出来ず一気に2日程度で読んでしまい、しかも生まれて初めて「数学って凄いな」と思えた本です。

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いやはや、とにかく、凄い。何が凄いかって、人類の「数というものに人生全てをかける情熱の歴史」がもの凄い。もちろん、この本の主役である数学者アンドリュー・ワイルズの才能と情熱と功績も凄いんですが、そこに至るまで360年間の壮絶なドラマがなにより凄いと思いました。

迫害に耐えながらも情熱を捨てなかった者、その才能故に人生を早く終わらせてしまったり、師や権力者によって殺された者、女性というだけで理不尽でおぞましい処刑をされ命を落とした者、・・・挙げるとキリがありませんが、当時の時代背景から考えると実際は活字で書くよりもっと悲惨だったと思います。そういう血塗られた歴史を積み重ねてたどり着いた一つの定理。凄いじゃないですか。

私のような凡人にはその定理は永遠に理解出来ないと思いますが、天才たちが単にひらめきではなく全てを捨て去る勢いの集中力と没頭と情熱によって一つ一つの定理を作り上げてきたのだなと思うと、中学・高校時代に「めんどくせー」とあくびしながら定理を覚えていた自分をちょっと恥ずかしく思いました。:-)

この数学界最大の難問に大きく貢献している人々に日本人が数名いる、ということも見逃せないところです。日本人として誇らしく思いました。

これは、「数学を舞台にした歴史ドラマ」ですね。ノンフィクションなのもGOOD。全ての数学オンチにオススメ出来ます。私でも読めて楽しめたんだから。

関連:

Feb 26, 2008

最近読んだ本:「究極の身体」

風邪をひいてしまいここんところバイオリズム的に沈み気味なのですが、こういう時期こそ「攻めの休養なのだ」という意識で前向きに過ごすために最近は再び読書熱が起こってます。

そんな中これまで読んできたフィットネス関連の本の中でちょいと異色の本をアマゾン経由で購入。

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そもそもこの高岡氏の理論に興味をもったのが愛読している「トライアスロンJAPAN」で最近よく取り上げられるからなのですが、この「究極の身体」という本は特定のスポーツに特化しているわけではなく、スポーツ全般に取り組む中で身体をコアから自由に動かす、筋肉と骨を分化させ、それをひとつひとつ意識できるように自分の意識を開発していくというどちらかというとトレーニングの本というより「意識開発」「人間のソフトウェア開発」という感じで興味深かったです。

はっきり言わせていただくと、この著者の高岡氏、私好みのスポーツ理論提唱者ではまったくありません。:-)  DVD付きの別の著書も読みましたが、まず、見た目とその醸し出す雰囲気が「怪しげ」ではっきりいって「胡散臭さプンプン」な感じ。その素晴らしさを讃える取り組んでいるスポーツ選手のインタビューとか、その一連の動き、彼の実演などを見ていると、なんか一歩間違えるとどこかの新興宗教勧誘DVDか?という趣きです。

これは著書を2冊読み終えた今でも変わらないので今はまだ「ほんとかなー」と半信半疑というか眉唾もの気味に見ている自分があるのですが、古武術からの流れの「なんば走り」「肩甲骨や骨盤や背骨などコアを使った動き」というのはここ最近のスポーツのトレンドでもありますし、高岡氏の提唱している理論もその流れから大きくはずれたものではなく、軸となる部分は結局「末端よりも体幹(コア)を開発せよ」であるので、そういういみでは理論を取り入れてみる価値はあるのでは?と思っています。

彼が唱える「ゆる体操」ですが、背骨を動きの起点として手足はそれを伝える伝達手段である、という考えの元、そのコア・センターを徹底してゆるませて自由自在に動かせるようにトレーニングする、というものです。一流のアスリートでメダリストでもあるハンマーの室伏選手やスケートの清水選手などは背骨を一本一本意識出来て、それをコントロール出来るそうそうですが、この辺もこの「ゆる体操」に通じるものがあるかもしれません.

まぁでも確かに、世界の一流は「身体ガッチガチ」でやってる人は皆無です。サッカーのジダンも動きは柔らかいし身体もしなやか。イアン・ソープも太い体幹で泳ぐその姿はグニャグニャです。ロードレース界の神様・ランス・アームストロングも決して手足は筋骨隆々ではなく細くて体幹だけが異様に発達しています。

この本を読んだ後、昨日たまたまテレビで2007年のツール・ド・フランスの再放送をやっていたので、選手達の体幹と手足、そして背筋と背骨の動きに注目して観ていました。そこで発見したのは、

  • 手脚が筋肉で太い選手は誰一人としていない。むしろ一般人の半分位では?とも思える異様なまでの細さ。その細い手足で山岳をグイグイ登り、下りを100km/h近いクレイジーなスピードで降っていく。カッコいい。
  • みんな背筋がこぶのように異様に盛り上がっている。
  • 漕ぐ後ろ姿から見られる背骨は、常に微妙にくねくねと背筋と連動して動き続けている。つまり、「がっちり固定して背筋に力を入れて」いるわけではない。

ということでした。この辺の「背骨の動き」は高岡氏のいう「ゆるんだ背骨」と関連があるのでは?と思いました。

いやしかし、ツールの選手達の自転車に乗ったその後ろ姿の美しいこと。漕いでいて身体全体はまったくブレないのに、背筋と肩甲骨と骨盤だけが波打つように「躍動」しています。その発達した背筋と細い手足から連想されるのは「野性のチーターの後ろ姿」そのままです。あれこそが究極ですね。

Feb 13, 2008

最近拾った記事いろいろ

合掌・ロイシャイダーさん逝く

映画「JAWS」の大ファンとしてはこのネタを取り上げずにはいられない。ブロディ署長、逝く。享年75才。

私が生まれて初めて心底ハマった映画、「JAWS」。確か幼稚園か小学校1年生かそのくらい。あまりの衝撃に、夜も眠れないほど興奮し、再上映も見にいきました。その時代に小学校時代を送った世代は圧倒的に「永遠の洋画はスター・ウォーズ!」だと思いますが、私はスター・ウォーズよりも「JAWS」でした。

どのくらいハマったかというと、まず、買ってもらった百科事典で鮫の種類をことごとく調べ、それを図解説を自分で作って遊んでました。「JAWSってサメという意味じゃなくて顎って意味なんだ!」とか、「アクアラング」とか、その辺の海洋関係の用語も覚えたり。そのあと、「JAWSを漫画化しよう!これは世界初に違いない!」と思い立ち、再上映の日に映画館に通って上映時間開始から夕方まで映画館で過ごし、ストーリーを全部頭に叩き込んで、家に帰ってそれから一週間くらいずーっと漫画化に取り組んでました。途中まで仕上げたのですが、最後あたりでストーリーがごっちゃになってしまい暗礁に乗り上げて終了。まぁ、記憶力が短い小学生でしたので。

あれからだいぶ時が経ちましたが、このスピルバーグの名画「JAWS」は、未だに私の「洋画・心のベスト5」にランクインし続けています。もちろんDVDも持ってます。大人になってアメリカのユニバーサルスタジオに行ったときにあの映画で使われた本物のジョーズのハリボテや、サメを告知する看板を見たときは、そりゃー感動しましたよ。永遠のJAWS少年は。

今映画を改めて見るとあのハリボテのサメがやはりいかにもハリボテで「作りもの」なんですが、なぜか不思議と違和感を感じないんです。これはやはり天才スピルバーグの演出や絶妙のカメラワークと音楽、そして主演のロイシャイダーを始めとした俳優陣の迫真の演技が全てのアラをカバーしているからなんだろうな、って思います。

いくらCGが進化しても、「スターウォーズ」の第一作の砂漠のシーンのロケのように、やっぱり「ロケ」して本物の海で泥臭く作った映画の臨場感は越えられない。最近のハリウッド映画がCGでリアル感を出すことに躍起になっているのとは対照的に、昔の映画はロケで実際にある場所でありえない臨場感やドラマを作ろうとしていた。そこに、人間臭い映画に対する「情熱」が溢れている、と感じます。(そういう意味では最近のやつはハリウッド映画より邦画の方が好きです)

未だに海に入るとあの音楽が頭に流れてサメに襲われないか心配になるもんなー。自然の恐怖を永遠に植え付けたこの映画の功績は偉大です。

なにはともあれ・・・少年の頃のヒーロー・ブロディ署長、安らかにお休み下さい。

Feb 06, 2008

最近興味を持った記事いろいろ

以前から外国と日本のIT関係の意識というか感覚の違いには興味があるのですが、最近拾ったこの辺の記事は興味深かったです。

国土が広く、国の大部分が田舎であるからこそインターネットが普及した・一般人のネットリテラシーが高くなったのではないかと言われるアメリカ、寒くて交通が不便だからこそ銀行などのライフラインのネットワーク化が早くから進み、高度な教育水準と合わせて世界有数のIT国家となっているフィンランド。この二つの国のIT文化は根っこの部分が日本とは異なる感じがして興味深いです。

日本は私の印象だとやっぱりどちらかというと未だに首都圏発信型というか、簡単にいうとテレビの延長のような発展の仕方だと思います。インフラなども大都市から中心に広がっていくという感じで。

これが良いか悪いかはどちらとも言えないと思いますが、私なんかは「パソコンでテレビが見れる」というのを全面に出す日本のPCメーカーのCMの発想などは、見る度に「うーーん・・・」となってしまいます。パソコンが生活の一部となる、という視点がちがうんじゃないのー、と。「もの作り」という文化は決して世界に引けを取らないのに、クリエイトしたりコミュニケーションしたり自己活性化するツールとしての部分をもう少し押し出してもいいんじゃないか、って思います。

Googleが世界ではデファクトスタンダードであるのに未だにYahoo!がナンバーワンである日本ですが、上記の記事からはなぜそうなのか?という部分は見えてきません。おかんの世代まで含めたメディアリテラシーの部分だけに言及している感じです。

私は「一般的にネットリテラシーやPC活用の意識が高い=Googleを選ぶ」とは言いきれないと思うのですが、半分は当たっているかもしれません。後の半分は、あくまで私の仮説ですが、「Googleのサイトは能動的人間向けで、Yahoo!のサイトは受動的人間向けだから」じゃないかな、と。使う側が「能動的な情報ハンター」という意識じゃないと使えない、「突き放し系インターフェイス」のGoogle。ある程度お膳立てされて整理されていてなにやら賑やかでデパートみたいで、どこかテレビっぽい「受動的インターフェイス」のYahoo。

これが「世界的にMacのシェアが上昇しているのに唯一下がり気味の日本」「Firefoxのシェアが上がらない、IE至上主義揺るがずの日本」という特殊性と関連があるかどうかはしりませんが、なんか日本と世界って、パソコンに対して異なる世界観を持っているような気がします。これが日本発の面白い何かが生まれる源になれば良いんですけどね。

Python本

Amazonに発注していたPython本の一つが到着。

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180ページ程度で、薄くてサイズも小さいので最初は「軽い簡単な内容なのかな?」と思いきや、作者のGuido van Rossum氏が書き下ろしたというだけあってC言語のK&R本っぽい雰囲気で内容は濃い印象です。これはちょっと時間をかけて長い目でじっくり取り組む本、という趣き。

定価1,200円のところ、アマゾンのマーケットプレイスで700円でゲット。全く傷もなく、ほとんど新品です。良い買い物しました。

Feb 03, 2008

NOKIA N73/705NKとPython関連

ちょうどPythonを触り出して、Symbian OS搭載のNOKIA N73/705NKも持っていることだし、ちょっとこれらで遊べないかなと考え中。

ということで、まずは情報収集。

【開発環境】

【情報系】

ついでに、Python関係の本も以下の2つを発注してみました。

そういえば先日NOKIA N95が発売になることが発表になりました。(↓)

めちゃめちゃカッコ良くて物欲刺激されますが、8GBモデルも海外ではあるようなので、それが日本で出てからでもいいかなとも思いました。(出るかどうか分かりませんが)正直N73/705NKが凄く気に入っているので満足しているのもあるんですけどね。ただ、使用頻度がかなり高いカメラ機能は、個人的には画質はもう少し良いのが欲しいので画質によっては買い換えるのもありかも。(もうコンパクトカメラはNOKIAでいくことにして、カメラ単体品は買わない方向でいこうかと)

Feb 02, 2008

感情論と理論

前回の「PHPとRubyについて」で書いたエントリーに関して、コメントやトラックバックを頂いたり、他の同記事への感想を書いているサイトを読んだりしていて「あーPHP派は過剰反応していてRuby派はやっぱりというか、まつもとさん肯定意見が多いなぁ」と思ったり、「自分の書いたエントリーも例えが悪かったり論点が微妙にずれてるとこがあるかもな」と反省したりしてたのですが、このPHP vs Ruby論争は考えているうちにだんだんどうでもよくなってきたので、それはひとまず置いておいて、そこから派生した部分へ話題を変えて...

「宗教論争にしたくないなら感情的でなく理論で書くべき」という意見を頂いたので、この点について、少し私が思いつくことを書いてみようと思います。(まぁ、ああいう風に書いたんですけど、私は別に「ムキー!!」と顔を真っ赤にして書いたわけじゃありません。もしそう思われ方がいたのなら、それは感情論の解釈の違いです。)

考察:「そもそも、感情論と理論は、同じレイヤーなのだろうか?」

昔から疑問に思っていてこれに対する納得できる「論理」が通った説明がないので未だに釈然としない部分があるのですが、理論派の人たちは「それは感情論でしょう。理論的に話をしましょう。」という引用をします。

では、「理論が通っていれば宗教論争には発展しない」と言えるのでしょうか。

例えば戦争というのも結局のところは宗教戦争と言えると私は思いますが、彼らはお互いの「理論」をぶつけて戦いに向かっています。

これはあくまで最近ふと思った私の考えですが、そもそも理論は感情を「正当化し、制御するためのもの」なのではないか、と仮定しました。ハードウェアが「感情(パッション)」で、それを制御するのがソフトウェアである「理論」。「なんとなく釈然としないんだけど、それがなんなのか分からない。説明がつかない。」と「感じる」のが感情論。「それはね、これそれそういう感情なんですよ。」と正当化するのが理論。

身近な例でいえば、「あいつの言い方、なんかムカつくんだよね。」「えーなんで?」「いや、なんか知らないんだけどさ。」とか、「彼女、かわいくないよね。」「うーん、そうだよなぁ。なんでだろ。」とか。この「なんとなくそう思う」が私が言うところの感情論。「きゃーあの人カッコいい!」「彼女超カワイイ。」も感情論。もちろん、感情論だけだと世の中は成り立たないです。むしろ崩壊するでしょう。でも実際問題として、理論で答えられない事のほうが多いと思います。

有史以来戦争は途絶えませんが、その現実を理論は覆せたか。否。私が思うまでもなく、これを否定出来る人はいないと考えます。つまり、人類は未だに理論で感情をコントロールしきれていない。「家族が殺された。あの犯人、ぶっ殺してやる!」「いや、そういう感情論は正しくない。しかるべき場所で正当に裁かれるべきだ。」仮に正当な万人が納得できる裁判で判決がくだされたとしましょう。果たして、家族を殺された人の感情はそれで本当に収まるでしょうか。

それで理論的に解決したとして、それで納得できて「あぁ、すっきり、理論的に解決できた。」と明日から楽しい毎日を送れる人間もいるかもしれませんが、少なくとも私は出来ないと思います。つまり、「理論は感情(パッション)」を完全に制御することは出来ない、と考えます。

なぜか。

それは「感情論 VS 理論」という構図がそもそも間違っているのではないか、ということです。「感情論 < 理論」では決してないし、「感情論 > 理論」でもない。同じレイヤーで語られる、相対するものではないんじゃないか、と。

じゃあお前の考えはどうなのだ、と言われると、私の考えは、今のところ、

「感情論の上に理論が成る」

というものです。

こう(↓)ではなく、
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こう。(↓)
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つまり、「感情論があって、その上に理論がのっかっている」と。肉体の一番近いところにある「感情」というカーネルがあって、それをコントロールする「理論」というGUIがある。結局、理論もなんらかの感情(パッション)を元に導かれるもので、「理論が成立さえすれば感情論はいらね。」じゃないと思うのです。まぁ、それが「かっこいい」と思う人もいるかもしれませんが。もしそういう人がいるのなら、それは人生経験が未熟か、付き合う人間がそれだけで解決する人たちだけの狭いコミュニティで生きているか、でしょう。世の中には自分の理屈が全く通らない人間も沢山いるわけですから。

感情を整理・制御するために理論も必要ですが、それと同時に、「感情(パッション)のない理論」は意味がない・無価値なものだと考えます。まぁ少なくとも私にとっては「パッションの欠落した理論」は怖るるに足らず、です。誰かが「感情論ではなく理論的に話しなさい」という理論を持ち出すことが間違っていないのと同様に、私が「なんとなくそう思う」という感情論を書くことも誰に咎められるべきことでもないでしょう。

はい、反論どうぞ。私の感情を制御出来る理論でよろしくお願いします。:-)

【追記】

私の文章力不足の部分もあるので、イメージを追記しました。

整理します。

  • そもそもの発端は、「感情的ではなく理論で書くべき」という意見を受けて。
  • 私は「感情論」を書いたのであり、「感情的に」書いたわけではない。(ここ大事)
  • 「感情論」は感情を起原としているという考えのもとに話をしているが、「感情論=感情・感情的」という意味で言っているわけではない。
  • 私がこの一番言いたいのは「理論というフィルターでは全てをカバー出来ないので伝え方Dもあっていいいんじゃないの?」ということ。